2012年05月30日

追悼 大島磯夫さんの歌声遍歴に添えて

大島磯夫さんがお亡くなりになったとは・・・・ほんとに、いまだに信じられません。
各地に歌ごえサロンの出前先が増え始めた矢先、病床にあって道なかば「このまま終わるわけにはいかない」とおっしゃっていた気持ちはいかばかりでしょう。最期の無念さを思うと残酷すぎます。

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夕陽丘にて。

何度かお会いした時、「今度は大宮でもやるようになったよ」とか、「住吉にも行くようになったよ」とか、「逆瀬川はみんなに意見を聞いたら、僕がいいらしい」とか、報告してくれました。そら、そうでしょう。

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ご自宅で拝見したアルバム。2011年5月8日の日付が写真にありました。この日は一心寺のようです。
ピアノは松田さん、アコーディオンが吉田さん。

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この写真はナイスバード開店に駆け付けた大島さん。2004年8月12日になっています。左の女性は東大阪ソカロの方ですね。
どちらの写真もプリントの写真です。

どんなに歌のうまい歌手も歯が立たない。歌声の心を知り、歌声の心で選曲するから、心に響く歌声になる。

さて、大島さんがどうして歌声喫茶の道に入ったのか?大島さんのwebページに詳しく書かれています。これを紹介したいと思います。将来を見ておられたのかもしれません。

『ようこそ 歌ごえサロンへ!』から
2009年11月7日(大島さん記)
思えば僕が歌声喫茶を知ったのは17・8歳の頃、初めて行ったのは道頓堀の「ふるさと」である、そこは細い階段を昇って二階か三階だったか、音楽が聞こえる部屋に入って行くと ステージで、ピアノ・ドラム・ギターなどの演奏で何人かの人が歌っていた。
席につくとボーイが 飲み物を聞きに来たので注文し、ボーイが置いていった 歌集とやらをめっくて見た。 僕はどうしてここへ入ったのだろう、場違いな所にいるのでないだろうかと思いながら、次々と流れる歌を聴いているうちに 知っている歌が出れば何と!一緒に歌っているではないか、これが聞いていた歌声喫茶なんだなぁー と感心している僕がいた。

その頃の歌声喫茶は毎日営業していた。 自分に合っていたのか 夕方になるのが楽しみで毎日通ったものだ。 どれ位たった頃か、親しくなったその店のバンドマスターが今で言うリストラで辞めたり、リーダーをやっていた人 (その一人が浜 裕二現吉本新喜劇)たちもそれぞれの都合で辞めたりして多くの歌の仲間は他所の店に流れて行った。
僕は千日前の「どん底」へ通うようになった。 そこでアコーディオンの吉田さんとの出合いがあり、それから もう40数年も経ったとは本当に月日の経つのは早いものだ。

ご存知の方もおられると思いますが、「どん底」 は ロシア民謡をはじめ世界の民謡を主にした歌声喫茶だった。 はからずもそれにはまってしまった僕は、ここにも毎日通った。 お金の無い時は片道のバス代だけ持って行けばサラリーマンの仲間がメシも帰りのバス代も都合してくれたことを懐かしく思い出している。
就職が決まって、中味の濃い3年間通った歌声喫茶から離れて間もなく、梅田の「こだま」を残してほとんどの店が転業していった。 それから何回か歌の仲間との交流はあったが、それぞれの生活に追われる日々に流されていった。

ある日、新聞に歌声喫茶のことが載っているのを見てしまったのである、33年ぶりにこの文字を見てもすぐ行動しなかった。 なにせ仕事がある身、しかしその新聞の切抜きはいつもカバンに入れていた。 常に気にしながら、思い切ってその店に足を運んだ。
そこには見覚えの有る女性がカウンターに立っていた。すぐに誰か判った。 相手も僕のことを覚えていた。まるで走馬灯のように過ぎた昔が甦ってきた。その日はすぐ帰り、土曜日の夕方 改めて行った所、そこに吉田さんがアコーディオンを抱えていたのです。

何回か通っている内、リーダーをしてほしいと頼まれ 僕のリーダーとしての生活がはじまった。 最初は第一と第三土曜日だったが 毎土曜日のリーダーを5年間位やったころ、その女性と行き違いがあって辞めることになった。
僕が辞める3年前に吉田さんはすでに辞めていた。 辞めて何日も過っていないある日、吉田さんに 「一緒に歌声喫茶をやりませんか」 と話しに行ったところ、一つ返事で了承してくれたことが今でもありありと思い浮かんでくる。

いよいよ準備にかからなければ 吉田さんと どんな曲にするかを決めることから始めたが、それからが大変でした。 まず歌集作り・・・何人もの方の協力のおかげで原稿が出来上がった。それを印刷屋に渡し、その合間に会場探し
 条件は1、駅に近いこと  2、会場は40〜50人入れること 3、見渡しが良いこと の三つを重視し、ここはと言うところに飛び込みをしたが帯に短し襷に長しでなかなか思うような店がなく、(谷町筋を)中央大通りから南へ南へ 四天王寺まで来て あそこへ行ってみようと訪れたのが今のマーブルである。

その時は息子さんだけだったが、事情を説明したところ「あぁ良いですよ」 と快く言ってくれました。 三つの条件にピッタリあっていたことが何よりでした。
その間に、吉田さんは400以上の曲を何と暗譜していたとのこと凄い!の一言である。

スタートを 平成5年4月(※注)の第一土曜日とし、3月の第三土曜日に、馴染みの方々に来て頂きテスト歌声喫茶を開いた。
そして本番の4月第一土曜日、来てくれるかどうか分からないのに準備をしていると、何と!店の前は人で溢れていて みんなどこへ行くのだろうと思って見ていると、この店に入ってくるではないか!! 入れない人も出て 結局65人の歌声が始まったのである。 歌ごえサロン夕陽丘の幸多いスタートでした。 あらためてみなさまに感謝の気持ちを伝えたいと思います。

それから4年と6ヶ月たった今、たかピーさんのご尽力のおかげで、私たち歌ごえサロンの素敵なホームページができたことは、素晴らしい可能性を開いてくれることでしょう。 歌の仲間のみなさん、このブログを 歌ごえの情報発信基地 として生かして行きたいと思っていますので、どうかよろしくご協力をお願いいたします。 大島 (※平成5年=2005年の誤り)


posted by まっち at 14:07| Comment(0) | 日記
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